釧路シンギング・リン音響セラピー風の木「響かせるということ」

「風の木」は北海道釧路市の住宅街にある音響セラピーサロンです

2012年 阿部敏郎さんのブログより「福 音」

私が会社勤めを辞めてこの仕事に入る2年ほど前頃から(それ以前にもありましたが)、これでもか、これでもか、というくらいに不思議現象が起き続けました

不思議現象といっても美しくて心地よくなるような現象ばかりで、怖いものはひとつもなかったので、当時はほとんど気に留めてはいなかったと思います

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ただ、今思っても「あり得ないよな」と思うような現象ばかりだったかな(笑

一昔前まではスピリチャル的なことにも関心はあり、そういう系のブログや本を読んでいたりもしましたが、10年ほど前からはほとんど読むこともなくなり、それ以上に現実的なことの方へ目が向いていったという感じでしょうか

それは、関心があるとか、ないとか、信じるとか、信じないとかではなく

何て言うのかなぁ… 

もう何を見ても

それは自分の奥深くに存在するもの
すでに自分の中ではわかっていること

そんなふうに感じるようになってしまったからかもしれません

精神世界ももちろん大切だとは思いますが、バランスなのだと思います

ただ今でも自分のバイブルとして好きな本「ハトホルの書」はいつも身近に置いているのと、阿部敏郎さんのブログだけは時々(月1くらい?笑)除いてみたりしています

阿部さんの考え方も賛否両論あると思いますが

「いまここ」を提唱し、そのままでいいんだよ、ということをブレることなく発信し続けていて、見ると自分に立ち返れるような安心感がある、という感じでしょうか^^

5年ほど前にもブログで書いたことがありますが

そんな阿部敏郎さんのブログから2012年2月17日「福 音」をもう一度載せてみたいと思います

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今朝早く、昨日頂いたコメントを読んでいて、とても力強く感じた文章があったので、携帯電話から読んでいる人のためにもこちらに掲載させてもらいます阿部敏郎
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わたしはかつて、浄土真宗はなんて自分に都合のいい身勝手な考え方をしているんだろうって思っていました。

他力?あなたまかせでいいの?人生は自分で切り開いていくものじゃないのか?って。ましてや、悪人でも救われる?そんなのありか? みたいな。でも

それは全く全く正しかった。
一年前、わたしの身に起こったこと。

認知症の母が寝たきりになり、施設に入れたくても空きがなく、空きがあっても重度であるため入所費用も半端なく、手段がないため仕事を辞め自宅介護にふみきりました。

そんな折かみさんが鬱になり、リストカット
長期の入院を余儀なくされました。

収入は完全に断たれ、かみさんの医療費も高額で、途方に暮れました。今まででも経済的な困窮はありましたが、こんなに前途が真っ暗な状態になった事はありませんでした。

行政の支援もお願いしましたが、まず資産を処分してから来なさいと断られました。処分するにも、なんせ、ど田舎の地所ですので土地も家も買い手などつきません。困り果てたわたしは、来る日も来る日も思案に明け暮れました。

そして、あきらめたのです。

もう起こる事と戦うのをやめよう。自分はもう死ななければならないなら死のう。

いや、積極的に死を選択するのではなく、そうなるのであれば受け入れよう。

世界が有るなら、それを現している元の、なにか偉大な力が存在するはずだ。それに自分の全てをまかせよう。生きようと必死になるサバイバルを捨てよう。

そうして、その偉大な力、いわば源泉に、または神に、わたしはわたしの人生だろうが、身体だろうが、命だろうが、魂だろうが、ありとあらゆる自分に関わる一切を差し出したのです。

そうするとどうでしょう!なんと
自分の苦悩から解き放されたような解放感に浸れたのです。

そして、ここに!この胸の、ここに、説明のつかない、ふくらみのある何かが現れたのです。

それは今まで味わったことのない幸せ、喜び、条件を必要としない愛と共に現れました。

わたしはその至福の故に喜び、その感謝の故に泣き、溢れ出るその愛の故に、酔いました。それは今でも、ここに。この胸のここから溢れてきます。

それが現れてから数日後、生活も、家のローンも、治療費も出してあげよう。返さなくてもいい。そんな人が出てきたのです。

まさに神が、わたしの人生の主導権を引き受けた瞬間です。

わたしは自分の内側に、絶対的に信頼できる神を得たのです。

それ以来、わたしは内側に、神の側に向いていて、頭のほうに意識を移動するには若干気力を使わなければなりません。自分の全てを放棄して、内なる神におまかせし、何であれそのみこころを受け入れる。

全くの他力です。そして、わかったのです。

だれもが本当は神の要素であることを。

それらは何一つ離れてはいない。

全ては一の中にある数限りない一であって、それらは集まっても全部で一であることを。

だれも生まれたものではない。
だれも死ぬものでもない。

世界は、みこころによって意識に立ち現われた映像にすぎないことを。
この至福の世界こそ、法然の言う浄土であることを。

そしてそれは、あの世にあるのでも、この世にあるものでもなく、それはほんとうは、全てなんだということを。

しかしながら、ほんとうにこの表現はいいのだろうか?言葉では言えない。それは存在しているとしか、これしか言えない。

ただ、他力は、正しかった。

今までほんとうにわかっていなかった。

これは、経験してはじめてわかる事なんだと実感できた。このことだったんだって、わかったんです。

もう身体を離れるのはいつでもいい。

明日でも、今からでも。みこころに従います。 

花岡修平
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この方は宗教のようなことは全く関係なく、ただ自分に起きた出来事を素直に書いていらっしゃいます

このような経験をされることは普通ではなかなかないと思いますが、「なるようになる・なるようにしかならない」にも通じる話しだと思い、今でも時々思い出します

いろいろな意味で、以前とは全く変わってしまったこの世界で今後どのようなことが起きてくるのか、私たちはどのように生きてゆくのか…

それは、ひとり・ひとり、考え方で変わってゆくのかもしれません

とは言え、私はいまだ足掻いてしまうことが…いっぱいあるのですが ^^

風の木臨時休業 
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